「私たち自身の批判的存在論、それを一つの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体とさえ見なしてはならない。それは私たちに課された限界についての歴史的分析であり、それらの限界の乗り越えの可能性をめぐる実験なのである。」

ミッシェル・フーコー 『啓蒙とは何か』

 

作品の内へと真理を整え入れることはそれ以前にはまだ存在せず、それ以後はもはや生じないだろう、そのよううな存在するものを生み出すこと。

亀裂の内にもたらされ、そしてそのようにして大地の内に立て返され、その結果として確立された闘争が形態である。

ハイデッガー 『芸術の根源』

 

映像芸術・・・闘争の場としての映像

ここで言われる「場」とはその闘争の対象であると同時に手段でもあるようなものであり、同時に自分たちが生きる場所でもあるようなもののことである。

私たちは映像によって、映像を批判し、映像による社会を変革する。それは決して、閉ざされたフィクションではなく、現実の世界への闘争である。

私たちは映像芸術を通じて、人間の新たな可能性を探求し、そしてそれを実現する。

そこで生まれる映像作品は闘争の場として私たちが世界に向き合った結果としての形態であり、同時に私たちが新たなものへと向かい始めようとする時間そのものである。

自分が生きる可能性の為に映像を製作をすること。


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